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令和二年、2020年!今年は東京五輪だったのに~
コロナウイルスの全世界拡大で延期とか(3/26)…
この頃は未だ他人事で…
梅は咲いたか桜は未だかいなと~
渡来人や有名人の足跡探して…
摂津の山並み南側山裾の地区をポタリ~

此処にも古墳群や須恵器窯跡も~
今ですよ今!
前には
~今回は、まださん・浮ドンと!

大阪府茨木市 宿久庄東村(川端康成旧宅跡) 11
だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ~相棒自転車は…
皆様、ブロ君でトリオポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和二年02月23日
                                           UP日:令和二年05月10日


宿久庄東村中



 消防団倉庫

※ん?

川端康成先生旧跡
川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、
日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。
1968年、ノーベル文学賞受賞。
1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、
医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。
7か月の早産だった。4歳上には姉・芳子がいた。
父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、
天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、
自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。
また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。
蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。
しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、
康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの
大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し
(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。
2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、
代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。
ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。
幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、
原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷
(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。
宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが
祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。
三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、
3歳の孫・康成を引き取った。
その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の
秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。
(Wikipediaより)


梅の花満開!



絵に成る場所を
探索して~

※残らめや花は散るとも梅か香は
政岡子規句




野辺の仏~
康成氏も見たんでしょうか?



現在地確認

※此処ですな!と~

環濠のような~



先へ~



惹かれるように~

※鬼柚子
前には

 お邪魔して~

※仲良く…

観音様

※火除観音様由来記
読めない…

周りは~

※先へ~

名残の旧道


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